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Subject: [eigakandemiyou:0850] 牛の鈴音 Date: Wed, 20 Jul 2011 20:43:30 +0900 (JST) From: 風曜日 To: eigakandemiyou@freeml.com Reply-To: eigakandemiyou@freeml.com もっきいさん。おつじさん、皆さん ハナコです。 韓国のドキュメンタリー映画「牛の鈴音」を幸いに音声ガイドつき でみることができました。この映画は3年前韓国で公開されたとき、「牛の鈴首 症候群」と呼ばれるブームを起こしたそうですが、やっぱり韓国も厳しいといわ れる学歴社会とその裏腹の格差拡大、電機、自動車産業をトップに高度成長とそ れについていけない人々にとって、この映画は「こういう生活もあるのか」と考 えられたのではないか。 この音声ガイド体験会を企画してくださった調布の石川さんの案内文 がありますが、この映画を理解するために引用させていただきました。 ーーーー引用ここから 皆様お元気でお過ごしでしょうか? 毎朝、新聞をみて「亡くなられた方々」の欄に眼を通すことを心がけています。 今日はこれだけ・・・3か月も経たのに、お一人お一人の家族の方々のことを想 い、 心が痛みます。段ボールで囲った避難所、未だに片づかない瓦礫の山、進まない 原発の処理、そして、見たくもない政治家達の足の引っ張り合い、こんなテレビ放送の 中で なかなか本当の元気も取り戻せない状況ですね。 そんなときですから、7月は韓国の美しい四季を通して、静かな時の流れを感じ させるドキュメンタリーで、「牛の鈴症候群」ともいえる気持ちを体験しましょう。海 外での題名はオールドパートナー、古るき良きパートナーです。大きな事件、政治的メ ッセージも無く、美しく格好いい若者もでてきません。描かれるのは、腰の曲がった老 人二人と一頭の牛のみ、しかし老いぼれ牛の動きのように、すべてはゆっくりとしてい ます。 イ・チュンニョル監督が、3年余りの月日をかけて完成させたドキュメンタリー は韓国映画界に奇跡をおこしたのです。2009年1月、わずか7館で封切られたこの映画は、 口コミで全国150館に拡大、公開7週目、8週目には大手メジャー作品を抑えて2週 連続興行成績ベスト1となり、累計約300万人動員という驚異的な記録を達成したので す 映画の詳細 ストーリー: 農夫のチェ爺さん、長い間一緒に働いてきた牛がいる。牛の寿命は15年と言われ てるが、チェ爺さんの牛は40年も生きている。爺さんはお婆さんと二人暮らしで、農作業 を休む事も無く、苦労は絶えず、お婆さんの不平不満は尽きない。新しい雌牛を買った が老いぼれ牛も捨てられず、爺さんは黙々と世話をする。そんな爺さんは頭が痛いと時 折つぶ やくようになり、医師から働くのを控えなさいと忠告される。忠告を無視して働 き続け収穫の秋を迎えるが…。 製作年:2008年 製作国:韓国 監督:イ・チュンニョル 出演: チェ・ウォンギュン,イ・サムスン 時間:78分 ----ーーー引用ここまで 映画に出てくる人は主におじいさんとその妻、さらに40年この農作業を支え続け た牛(パンフや音声ガイドでは老いぼれ牛となっているのですが、何か身につま されるのでこのメールでは老鈴子と呼ばせてもらいます。老ハナコ) 老鈴子は推定年齢80歳、おじいさんも同じ年、四十年、おじいさんと老鈴子は、 いつも一緒に農作業をしてきたのですが、そろそろ両者とも限界に近づいている ようで、おばあさんは口うるさく、老鈴子を売ってしまえとおじいさんにせまり ます。おじいさんは寡黙で老鈴子ももちろん鈴音とモォーというくらいですが、 おばあさんはなかなか口うるさい。 観る前に「静かな映画だから寝ないように」と注意されて、そのつもりでいった のですが、おばあさんがうるさくて、また映画のテンポが速くて一睡もしないう ちに終わっていました。サイ ヨーイチが「韓国は東洋のラテン」といったこと を思い出しました。 この映画を活気付けでいるのは、おばあさんだけではなく、現在の韓国の農村の状況が 垣間見られるところにあります。たとえば農産物の自由化反対の集会に老鈴子が混じって「モウー」と鳴いているシーンは笑えます。その他にもユーモラスな場面があり、韓 国人とのメンタリティの違いや同一点を考えさせられます。 また、老鈴子がなかなかの名優ぶりで、新しくやってきた若い雌牛に、えさを横取りされる場面など、涙を誘われます。 最後の場面で老鈴子に駆け寄るおばあさん、とても感動的でした。 寡黙なおじいさんが、農薬を使っていない草を刈りにいく、それだけで大変なのですが、文句をいうおばあさんに「安心なものを食べさせたい」…本当に泣かせます。 映画を観る機会を作ってくださった方々、音声ガイドを作成してくださった皆さ んに感謝、感謝です。 もっきぃさんのメールがこの映画を理解するために、とても役にたちました。 以下に引用させていただきます。 Subject: [eigakandemiyou:0852] Re: 牛の鈴音 Date: Mon, 25 Jul 2011 00:53:39 +0900 (JST) From: "Dohi Motoi(Asahi-net)" To: eigakandemiyou@freeml.com Reply-To: eigakandemiyou@freeml.com もっきぃです。 ハナコさんののご紹介くださった「牛の鈴音」いいですね。 私が2010年に鑑賞した百作品のなかで、ベスト10前後の満足度です。 <多少のネタバレを含む> 冒頭のシーンが強烈で、おじいさんが、おばあさんと、お墓だったか、神社だったか かなり高いところへと登ってゆくシーンがあります。おじいさんは、足が悪くて、 おばあさんに、なんやかんやといわれながら登っていきます。ちなみに、おばあさんが なんやかんやというのと、おじいさんがほとんど言い返さずにもくもくとなにかをするのは、 この映画の最初から最後までかわりません。また、おじいさんのあし(下肢)、確か左足が、 極端に細くなっているのが、映画の中盤頃にうつります。それはまるで、ひざから下は骨 のような感じで、そんななか牛と共に農作業を続けて土を掘り返している後姿にドキッと くるシーンでもあります。そして、冒頭の登っていくシーンを思い出してさらに胸が締め付け られるシーンでもあります。さて、冒頭にもどって、お墓だったかの前についたおじいさんは、 祈りをささげます。正座をした状態から、頭を地面につきそうなぐらいまでさげていきます。 そのとき、左手がアップになるのですが、手のひらが、上を向いているんです。これは、 日本と韓国の違いなのか、このおじいさん特有のことなのかがよくわからないのですが、 かすかに震えるおじいさんの手は、訴えているようでもあり、手のひらで空から、 あるいは天からのなにかをうけとっているようでもありました。 おじいさんが牛の荷台にのって移動してゆくのをみると、おじいさんが牛に指図して すすんでいるようにも、牛がおじいさんをひっぱっていっているようにもみえ、 まさに、ハナコさんが引用された石川さんが書いてられた原題「オールドパートナー」 だと思いました。 おじいさんのやっていることや、こだわりは、経済活動としてみればこっけいなことにも みえるのですが、本来、おじいさんと、牛と、おばあさんでお互いをいたわりあい暮らして いければ、その生活そのものが幸せであり、この映画をとおしてうけとった感動は、 三者のコミュニケーションと気持ちの深さなのかなあと考えさせられました。
Subject: [eigakandemiyou:0850] 牛の鈴音 Date: Wed, 20 Jul 2011 20:43:30 +0900 (JST) From: 風曜日 To: eigakandemiyou@freeml.com Reply-To: eigakandemiyou@freeml.com もっきいさん。おつじさん、皆さん ハナコです。 韓国のドキュメンタリー映画「牛の鈴音」を幸いに音声ガイドつき でみることができました。この映画は3年前韓国で公開されたとき、「牛の鈴首 症候群」と呼ばれるブームを起こしたそうですが、やっぱり韓国も厳しいといわ れる学歴社会とその裏腹の格差拡大、電機、自動車産業をトップに高度成長とそ れについていけない人々にとって、この映画は「こういう生活もあるのか」と考 えられたのではないか。 この音声ガイド体験会を企画してくださった調布の石川さんの案内文 がありますが、この映画を理解するために引用させていただきました。 ーーーー引用ここから 皆様お元気でお過ごしでしょうか? 毎朝、新聞をみて「亡くなられた方々」の欄に眼を通すことを心がけています。 今日はこれだけ・・・3か月も経たのに、お一人お一人の家族の方々のことを想 い、 心が痛みます。段ボールで囲った避難所、未だに片づかない瓦礫の山、進まない 原発の処理、そして、見たくもない政治家達の足の引っ張り合い、こんなテレビ放送の 中で なかなか本当の元気も取り戻せない状況ですね。 そんなときですから、7月は韓国の美しい四季を通して、静かな時の流れを感じ させるドキュメンタリーで、「牛の鈴症候群」ともいえる気持ちを体験しましょう。海 外での題名はオールドパートナー、古るき良きパートナーです。大きな事件、政治的メ ッセージも無く、美しく格好いい若者もでてきません。描かれるのは、腰の曲がった老 人二人と一頭の牛のみ、しかし老いぼれ牛の動きのように、すべてはゆっくりとしてい ます。 イ・チュンニョル監督が、3年余りの月日をかけて完成させたドキュメンタリー は韓国映画界に奇跡をおこしたのです。2009年1月、わずか7館で封切られたこの映画は、 口コミで全国150館に拡大、公開7週目、8週目には大手メジャー作品を抑えて2週 連続興行成績ベスト1となり、累計約300万人動員という驚異的な記録を達成したので す 映画の詳細 ストーリー: 農夫のチェ爺さん、長い間一緒に働いてきた牛がいる。牛の寿命は15年と言われ てるが、チェ爺さんの牛は40年も生きている。爺さんはお婆さんと二人暮らしで、農作業 を休む事も無く、苦労は絶えず、お婆さんの不平不満は尽きない。新しい雌牛を買った が老いぼれ牛も捨てられず、爺さんは黙々と世話をする。そんな爺さんは頭が痛いと時 折つぶ やくようになり、医師から働くのを控えなさいと忠告される。忠告を無視して働 き続け収穫の秋を迎えるが…。 製作年:2008年 製作国:韓国 監督:イ・チュンニョル 出演: チェ・ウォンギュン,イ・サムスン 時間:78分 ----ーーー引用ここまで 映画に出てくる人は主におじいさんとその妻、さらに40年この農作業を支え続け た牛(パンフや音声ガイドでは老いぼれ牛となっているのですが、何か身につま されるのでこのメールでは老鈴子と呼ばせてもらいます。老ハナコ) 老鈴子は推定年齢80歳、おじいさんも同じ年、四十年、おじいさんと老鈴子は、 いつも一緒に農作業をしてきたのですが、そろそろ両者とも限界に近づいている ようで、おばあさんは口うるさく、老鈴子を売ってしまえとおじいさんにせまり ます。おじいさんは寡黙で老鈴子ももちろん鈴音とモォーというくらいですが、 おばあさんはなかなか口うるさい。 観る前に「静かな映画だから寝ないように」と注意されて、そのつもりでいった のですが、おばあさんがうるさくて、また映画のテンポが速くて一睡もしないう ちに終わっていました。サイ ヨーイチが「韓国は東洋のラテン」といったこと を思い出しました。 この映画を活気付けでいるのは、おばあさんだけではなく、現在の韓国の農村の状況が 垣間見られるところにあります。たとえば農産物の自由化反対の集会に老鈴子が混じって「モウー」と鳴いているシーンは笑えます。その他にもユーモラスな場面があり、韓 国人とのメンタリティの違いや同一点を考えさせられます。 また、老鈴子がなかなかの名優ぶりで、新しくやってきた若い雌牛に、えさを横取りされる場面など、涙を誘われます。 最後の場面で老鈴子に駆け寄るおばあさん、とても感動的でした。 寡黙なおじいさんが、農薬を使っていない草を刈りにいく、それだけで大変なのですが、文句をいうおばあさんに「安心なものを食べさせたい」…本当に泣かせます。 映画を観る機会を作ってくださった方々、音声ガイドを作成してくださった皆さ んに感謝、感謝です。 もっきぃさんのメールがこの映画を理解するために、とても役にたちました。 以下に引用させていただきます。 Subject: [eigakandemiyou:0852] Re: 牛の鈴音 Date: Mon, 25 Jul 2011 00:53:39 +0900 (JST) From: "Dohi Motoi(Asahi-net)" To: eigakandemiyou@freeml.com Reply-To: eigakandemiyou@freeml.com もっきぃです。 ハナコさんののご紹介くださった「牛の鈴音」いいですね。 私が2010年に鑑賞した百作品のなかで、ベスト10前後の満足度です。 <多少のネタバレを含む> 冒頭のシーンが強烈で、おじいさんが、おばあさんと、お墓だったか、神社だったか かなり高いところへと登ってゆくシーンがあります。おじいさんは、足が悪くて、 おばあさんに、なんやかんやといわれながら登っていきます。ちなみに、おばあさんが なんやかんやというのと、おじいさんがほとんど言い返さずにもくもくとなにかをするのは、 この映画の最初から最後までかわりません。また、おじいさんのあし(下肢)、確か左足が、 極端に細くなっているのが、映画の中盤頃にうつります。それはまるで、ひざから下は骨 のような感じで、そんななか牛と共に農作業を続けて土を掘り返している後姿にドキッと くるシーンでもあります。そして、冒頭の登っていくシーンを思い出してさらに胸が締め付け られるシーンでもあります。さて、冒頭にもどって、お墓だったかの前についたおじいさんは、 祈りをささげます。正座をした状態から、頭を地面につきそうなぐらいまでさげていきます。 そのとき、左手がアップになるのですが、手のひらが、上を向いているんです。これは、 日本と韓国の違いなのか、このおじいさん特有のことなのかがよくわからないのですが、 かすかに震えるおじいさんの手は、訴えているようでもあり、手のひらで空から、 あるいは天からのなにかをうけとっているようでもありました。 おじいさんが牛の荷台にのって移動してゆくのをみると、おじいさんが牛に指図して すすんでいるようにも、牛がおじいさんをひっぱっていっているようにもみえ、 まさに、ハナコさんが引用された石川さんが書いてられた原題「オールドパートナー」 だと思いました。 おじいさんのやっていることや、こだわりは、経済活動としてみればこっけいなことにも みえるのですが、本来、おじいさんと、牛と、おばあさんでお互いをいたわりあい暮らして いければ、その生活そのものが幸せであり、この映画をとおしてうけとった感動は、 三者のコミュニケーションと気持ちの深さなのかなあと考えさせられました。
もっきいさん みなさん ハナコです。 「マイ・バック・ページ」を観てきました。いろいろ考えさせられる映画でした。 私は原作を「さぴえ図書館」で読んでいますが、原作では主人公の目線だけです が、映画は沢田と梅山、彼らを取り巻く人たちが同じ濃度でしゃべり、行動する。 そこが映画ならではの多声的なおもしろさだなと、久しぶりに映画を観ての感想です。 (1) エリートジャーナリストの「罪と罰」 沢田(妻夫木聡 )のモデルである映画評論家川本氏は自署に学歴と職歴を書き ません。そこに彼がこの事件で受けた傷の深さが今回分かったようなきがします。 映画にはほんのすこしだけ出身校が出てきます。東大法学部から朝日に入社して 3年目に「朝日ジャーナル」編集部に移り、事件に引き込まれ、逮捕、起訴、有 罪となり朝日も馘首されてしまう。当時の朝日は大朝日と言われるくらい、現在 とは比べものにならないほど権威と部数を誇っていました。当時の若者は「左に 朝日ジャーナル、右手に少年マガジン(あしたのジョー掲載)といわれたくらい です。念願の朝日に入社し、週刊朝日を経てジャーナルに移動します。(映画で は東都社) しかし彼が移動したときは学生運動は下火となり、大衆運動に見きりをつけた セクトはより過激な爆弾闘争や銃撃戦に移っていき、その課程で梅山に出会うの です。この梅山という男は、奇妙なカリスマ性と対象にうまく同化する能力があ り、うさんくさいと思いながら沢田は彼に引き込まれていきます。ただし梅山が 主犯となって引き起こした自衛官刺殺事件は不条理としかいえないもので、武器 の奪取とビラの配布のために侵入した駐屯地で、たまたま出くわした自衛官を刺 殺したというものです。 沢田がなぜそれを記事にしたいのか、理解しかねるところがあります。 一緒に取材した先輩記者は、社会部長に「警察にいけ」といわれて従いますが、 沢田は「情報源の秘匿」を主張して譲らず、社内での孤立を深めていきます。彼 が梅山から犯行の証拠として受け取った腕章を焼いてしまったことで、「証拠隠 滅」の罪に問われてしまいます。 沢田(川本氏)が最後まで梅村についての情報を警察に提供するのを拒んだのは ジャーナリストとして当然のことでした。たとえ犯人が思想犯でなく殺人犯でも …。 (2) 東大安田講堂と連合赤軍のあいだで… 映画は若い男が落城した安田講堂に忍び込みその壁に書かれたさまざまな落書き、 アジテーションを読んでいるところからはじまります。後に男が梅村だというこ とが分かるのですが、彼が東大闘争をどうとらえたかは分かりませんが、何か影 響を受けたという感じです。一方沢田は東大闘争を取材するという立場です。映 画には出てきませんが、映画では自分が安全な報道陣という立場にいることに、 罪悪感に近いものを抱きます。69年の東大闘争の敗北は、全国全共闘会議の結 成に至りますが、全体としては退潮期となり、72 の連合赤軍に至ってしまう。 その流れのなかでの事件であり、沢田はジャーナリストとして、梅山は「革命 家」として出会う。ただ、梅村は巧みに沢田のこころをつかんでしまいます。若い沢田が先輩記者の忠告にも関わらず、引っ張り込まれてい く道筋がわかります。 (3) 泣く男と泣かない男 沢田は映画が好きで、週刊誌の表紙モデルの女性とアメリカ映画を見に行きま す。その後二人は感想を語り合うのですが、女性は「男が泣くところいい」とい う。やくざ映画が好きな沢田が「男が泣くのはみっともない」と反論するのです が、映画のラストシーンはとてもいい。あの時代の無数の「挫折」の深さを、そ して沢田が取材で関わった底辺の人たちの優しさと厳しさを感じました。この場面は原作にはなく、シナリオのオリジナルです。 (4) やさしさと暴力と… やはり原作にないシーンですが、山本全国全共闘議長をアジトから会場の日比谷 公園に運び、林の中を会場に急ぐ道で私服刑事に捕まってしまう。彼は逮捕覚悟 できたので「十分くれ」と頼むが、もちろん私服は聞かない。そこで…。議長は 挨拶を済ませて逮捕される。この…が記者たちが何かするのです。詳しくは映画 でどうぞ。 久しぶりに映画について書いたので、文章が長くて堅くなりました。ネタバレも あり、ごめんなさい。最後にこの音声ガイドはとてもよくできていて感心しまし た。画面を見ているような錯覚に陥りそうな、自然なガイドです。
もっきぃさんのメールその3 ま山荘への道程 これぞ実録映画、いまだにこの事件の影響は大きい。 Date: Mon, 4 Aug 2008 03:53:59 +0900 (JST) もっきぃです。 暑いっ。冬はとても寒いところだけに、夏の暑さはお手柔らかに 願いたいものですが連日35度(京都府福知山市)です。 さて、前回感想メールから早くも一ヶ月以上。そういうこともあまり珍しくない MLですが「実録・連合赤軍」を見てから、その手の本にはまっており、 映画5本見る間に10冊読むという、珍しい状況になっています。それも、なんと 内容の重いことか。連合赤軍No.3 坂口弘著「あさま山荘(上下)」の 山岳ベース最初のリンチ殺害のシーンでは、死にゆく若者の最後の驚異的な 粘りに息を呑むとともに、なくなったときにはこちらまで落ち込みました。 また、No2.永田洋子著「十六の墓標(上)」「私生きてます」は、全編をとおして 軽い吐気をもようしながら読みました。関連本は多くまだつづきますが、 読めば読むほど、彼らは特別な人ではないとの思いと、なんとも押し戻せない 流れの怖さに立ちすくんでしまします。 60年代の学生運動、何万人というデモが行われ、何千人という逮捕者をだしても、 世の中変わらなかった。闘争のなかでヘルメットを被り角材を手にし、火炎瓶を 投げても国家・警察の壁はあつく、傷つき命をおとす同志もでてくる。 一方平均的な国民の生活水準はあがっていき、暴力的な活動に対して多くの人は 遠ざかっていったのでしょう。それでも世の中おかしいと、富の分配はあまりにも 不公平で一般的な生活水準があがっていくなか取り残された人はどうするんだ、 平等な世界を今つくりたいと夢み、少数になった活動家は飛躍をし戦士となり 銃を持って戦うしかないと考える人がでてくるのは必然かなあと思います。 言葉を変えれば、世の中わかる時にはコロッとかわるのでしょう。でも人為的に 直ぐに変えることはほとんど不可能に近いわけでう。でもそれをやろうとしたら 銃を持つことが正しいかどうかはおいといて既に暴力的な闘争をはじめている 人にとっては賭ける価値のある内容であったのではないでしょうか?実際、 対案としてこんな方法があるとは、誰も言えないことでしょう。いえるとしたら 「やめようか」ですが、言っても受け入れられないでしょうし、それこそ 徹底追求にあうことでしょう。 無謀なことに立ち向かった結果、より過激で暴力的な方法論に頼るしかなく、 制御できる人より暴力的な人がのし上がってゆき、対案なくして反対なしのなか、 予想をはるかに超える速度で奈落の底へ落ちていったという気がします。 連合赤軍の個人個人は、それを何とか個人的な飛躍でギャップをうめようと するのですが、もがけばもがくほど落ちてゆく蟻地獄、そんな感じがします。 以前のメールで坂口弘の著書から『将来漁協の幹部になったとしても、こうした 水産労働者の上に胡坐をかくのであれば、いかにも居心地が悪い』『労働運動の 活動家になって水産労働者の生活向上のため微力を尽くしていくことを決意した』 とのを引用して、なんと謙虚な方かと思ったわけですが、そういう方よりも より過激な(あるいは最も染まりやすかったという言い方が適当かもしれません) 永田洋子が革命左派の最高指導者になるというのも運命なのかと思い ました。また坂口弘が幹部としてメンバのもっともな意見をつぶしてゆく のですから、なんともうまくいかないものです。 例えば、銃砲店襲撃のとき『民間人を巻き込むのはよくない』との意見がでます。 もっともな意見であり、ここはひとつの大きな分岐点だったと思うのですが、 『銃砲店は警察権力と一体化しているので、その末端機関とみなすべきだ』 と論破してしまいます。組織内においては、的を得た説得なのでしょう。 そして銃を手にすると警察は4万5千人を動員してのローラー作成、おのずと 逃亡と潜伏の生活となってゆきます。 考えてみれば潜伏生活というのは想像以上に大変なものではないでしょうか。 街に出れば自分たちの指名手配写真がベタベタと貼られ、組織外の家族/友人 との接触もなくなり、生活費もままならない。当時この手の運動は衰退傾向で、 過激派への支援者はますます少ない。味方のはずの大衆の支持は得られず。 上位の幹部は逮捕され監獄へ、交番襲撃で死亡した同志もいる。 何と<孤立>していることか。<孤立>せざるを得ないことかと思います。 秘密のアジトから脱走者がでたりスパイ容疑者がでると、その処遇が 問題となります。つれ戻して「牢屋」に監禁する案も現実的と思えず 組織のためと革命左派幹部は、迷いながらも殺害を決めてしまいます。赤軍派 から『スパイや離脱者は処刑にすべきではないか』『赤軍派でも同じ問題があり 処刑することに決めている。(※実際には処刑せず)』と言われていたこと (かまをかけられたか?)もプレッシャーになっていたことでしょう。 ここでも『本人を説得するから、殺害は待ってくれ』『本人の自由ではないか』 とのもっともな意見がでますが『脱走者は逮捕され口を割るだろう』『組織を 守るためにはしかたのないことだ』と説得。人より組織が優先される以上、 対案なくして反対なしの法則がここでも悪いほうへと働いています。 後に殺された女性活動家は『一人の戦士を疑惑によって抹殺することは 非常に恐ろしいことだ』と書いてます。この感覚も非常に一般的な感覚でしょう。 殺害を決めて取り消されたこともあったからそうならないかみんな内心では 祈っていたのではないでしょうか? 最初の犠牲者 1971年8月4日未明 早岐やす子(享年21歳)日大看護学院 ※山岳ベース事件の前、映画ではたぶん3時間のうちの1時間たらずぐらいの ところです。 実行メンバから『どうしても納得ができない』とう声がでる。永田洋子は 『交番調査中の脱走は殲滅戦への敵対であり、こうした敵対から我々の戦いを 守る必要がある』と説得するのだが、説得するほうも組織を守ろうと手一杯。 残酷であると同時にあっぷあっぷの状態もみてとれました。 このとき坂口弘は、直接手を下しはしなかったが黙認してしまった幹部であり 殺害後の実行メンバが動揺し、荒れ、『殺害者の威勢』を感じて 大変な間違いをさせてしまったと痛切に思ったといいいます。 そして実行メンバ4名を喫茶店に誘い--「あさま山荘1972」から引用 『自分はみんなに大変申し訳ないことをしてしまった、と両手をついて謝る つもりでいたのである。ところが、四人を目の前にして、いざ謝ろうとすると 言葉が容易にでてこない。彼らの驚愕、怒り、そして私への責任追及といった 起こり得る事態が次々に頭に浮かんで来、急速に私の決意は萎えていった。 そこには人は居らず、謝るにはいい場所だったが、私はこの機会を逃がして しまった』 以前、これまた連合赤軍の山岳ベース事件を扱った映画『光の雨』の特別 インタビュー集というのがあり、そこで『彼らは賢かったのだろうけれど 決定的になにかが欠けていたのではないか』とのひとりの役者さんの感想を 聞いて、とても違和感をもったおぼえがある。だいたい人間なんてひとりでは 欠けて欠けて欠けているものであり、発言の言外に感じられた彼らを 特別視する部分に疑問をもったものです。今回映画を見て本をよんでいると 自分だったらこういう意見をもったであろうこう感じたであろうということが、 あちこちにでてきていると感じました。自分もあの時代あの場面にいて、 魅力ある先輩にオルグされていたら、あれよあれよという間にのめり込み ハイキング気分で山に入っていって、そのあとはどうなったことやらです。 ではまた。
Re: 実録 連合赤軍 Date: Sun, 3 Aug 2008 01:03:14 +0900 (JST) ハナコさん、お久しぶり。もっきぃです。 ほんとに、ほんとにひさぶりで、投稿いただいたことを 熱烈に歓迎します。もうすく北京オリンピックですね。 ハナコさんの >「う-ん」と絶句するしかない時代が30数年続きました。 > の言葉を重く受け止めます。ひと世代あとの私の年代では当時の記憶もうすく、 まずなにがおこったのか?からのアプローチです。私の話で恐縮ですが 父は当時大学に勤め学生との折衝役みたいなことをやっていたようで、 ある朝小学校へ行こうとしたときに私の家の門に鎖とダイヤル式の施錠が されており、過激派学生の仕業ではないか?と思ったことがありました。 『(門を)乗り越えられるよ』と私は言ったのですが、父が観音開きの門の つけねのことろを持ち上げてはずして『これで大丈夫や』と言い、出て行き ました。わたしは、たわいもなく、興味津々で学校から帰ってきたのですが、 既に門は元通り。向かいのひとつ上のひーちゃんが、ダイヤルを回して 施錠をあけてはずしてしまったと聞き、何事もなく?解決してしまったことを ちょっと残念に思ったことを覚えています。このあたり父が生きていれば いろいろと聞きたいところなのですが残念です。母は門のことは覚えてない のですが、当時は父の帰りが遅いといつも学生運動のことがあり 心配であったといいます。 >なぜ、彼らがあのような道を選び、私は選ばなかったのかという直截な問いと >、彼らをあのような悲惨な道に追いつめていったのはなんだったのかというふ >たつの問いが突きつけられていると思うからです。 >だから、映画は見ていません。見るのがいやだったということもあります。 > 同時代とそうでないものの違いでしょうか?『問いが突きつけられている』とい う感覚が ないため、私は怖さ半分で興味をもって見に行けるのだと思います。 >でもDVDが出たら、借りることになりそうです。 > でるかな?どこかのブログでよみましたが、監督は映画は映画館でとの考えで 予定はしていないらしいと。でも、金に困ったらDVDだすと、またぎぎで書いて ありました。 >もっきぃさん 解説の続きを期待しています。 > 書きかけてほったらかしにしていましたが、日曜日にかこうかな? 解説というよりエッセイですが。 ではまた。
実録・連合赤軍 あさま山 荘への道程 これぞ実録映画、いまだにこの事件の影響は大きい。 Date: Sat, 14 Jun 2008 05:29:00 +0900 (JST) 凄かった。今年のナンバーワンかも?福知山シネマで1週間上映して くれたおかげで、映画館でみれました。 連合赤軍についてよく知っているわけではないので、これが実録なのかは わからないです。だけど自分がこの若松監督の表現した当時の環境に ひとりのメンバとして存在していたらおなじこと(同士殺しへの加担)を したのではないか、逃げられなかったのではないかと 納得させられる迫力がありました。 また、この事件の影響の大きさについて改めて考えさせられました。 新左翼運動、学生運動が急激に失速する契機になったといわれる 事件ですが、それにとどまらず今の自分や多くの日本人が 革命を夢見ない あるいは、すでに進行していた経済最優先の日本に 漫然とみんなが従うという状況になるのを、後押ししている事件 なのではないかという気がしました。 私は当時小学生で、おぼろげながらテレビをみた記憶がありますが、 振り返ってみれば同じ月には「札幌オリンピック」がありました。 開会式は、その頃ようやく各クラスに設置されたテレビでみました。 生徒は皆釘付けになっており開会式の途中で担任の女先生が ほかのクラスに「家庭科を教えにいってくるからXX先生が来たら テレビ消すのよ」と言って出て行って、数分して「向うでもテレビ みてたので、帰ってきた」と言われたのを覚えています。そんなのどかな 小学生時代の同じ月にあさま山荘事件は起こりました。こちらも釘付け。 瞬間最高視聴率89%。誰もが話題に。「あの鉄の球でぶち壊せ」 だとか、家に帰ると毎日「どうなった」から会話がはじまりました。 でもその後あきらかになった連合赤軍内でのリンチ(山岳ベース)事件 については、誰とも話した記憶がありません。新聞で死体が置かれた 挿絵を見た覚えがあるのですが、なんだか見てはいけないものを 見てしまったような気がしました。皆も衝撃が強すぎて、あまりにも おぞましくて、話題としてさけたのではなかったろうかと思います。 そして、この映画で一番印象に残ったのは、まさにその 「あさま山荘への道程」のリンチ事件でした。 主演は、坂井真紀。まあ3時間超のなかで主演はころころと変わるので この表現は適当ではないかもしれませんが全体で誰が一番印象深かったか といえば、粛清された遠山美枝子役の坂井真紀。役者としてはアイドル 的なイメージをもっていたし、遠山という人については全く知らなかったので 見るまでは?と思ったのに映画では、追い詰められ壊れてゆく姿をみごとに 演じていました。全体を通してとぎれなかった緊迫感のなかでも特に極限に 近づいていた場面でしょう。あとから知ったことですが、遠山美枝子は 若松監督の『赤軍-PFLP世界戦争宣言』(1971年)の上映運動を 手伝っていたとのこと。監督の特別な思い入れがうかがえます。 もうひとり監督の特別な思い入れがあるのではと感じたのは、前述の映画に 現地協力した重信房子。冒頭のほとんど記録映像のなかで実写で登場。 『学費値上げ阻止!』などの立看がならぶ大学のキャンパス。 アジっているのを立ち聞きしている、ちょっと時代を飛びぬけたような容姿の 女性。(演じるのは、『約三十の嘘』伴杏里。モデル出身)そこに、はじめて きましたという感じでやってくる遠山が横に立ち二人は視線を一瞬合わせる。 歴史的の瞬間!?_その後二人が腕を組んでデモするなどいろいろあって、 夜の街で二人がわかれるシーンがまた印象的。「フー」「ミエコ」と呼び あう二人だが、もう生きて会うことはないとお互いが思っているのが伝わって くる。<字幕 赤軍派国際委員 重信房子 レバノンへ脱出> もっとも私は、ここで遠山が日本に残ったということは、山で殺される側に なるんだろうなあと予想し、重信は今も生きてるわけだから、海外に出た方 が生き延びるんだと思ったのだが、実際当時の感情は逆。 以下は文藝別冊から引用したブログの引用 「『フーの方が、先に死ぬんだねえ』/ミエコはいった。/わたしは、 何も答えなかった。/ミエコの目に、みるみる涙が浮かんできた。 わたしに『死ぬ』という言葉を言ったのはミエコがはじめてだった。」 引用終わり 考えてみれば当然で、まさか日本でそれも同志で殺しあうなんて 誰も思っていなかったことでしょう。レバノンに行ったほうが、 死ぬ確率は高かったはず。運命だなあ。 書き出すと、あのシーン、この役者さんと、いろいろ語りたくなる 映画ですが、もう朝です。でも、もうひとつだけ、ネタバレ気味ですが ラストのところ。一番若いメンバが叫ぶところ。 このシーンは、映画の冒頭で『この作品に描かれた事件や出来事は すべて事実だが一部フィクションもふくまれる』とあったフィクションの 部分だろうけど、実録とはいえただ事実を描いて観客に判断を委ねる のではないところがよかったと思いました。監督の生の声というか、 若い人への思い入れを感じました。 また機会があればつづき書きたいです。ではまた。
実録・連合赤軍 あさま山 荘への道程 これぞ実録映画、いまだにこの事件の影響は大きい。 Date: Sat, 14 Jun 2008 05:29:00 +0900 (JST) 凄かった。今年のナンバーワンかも?福知山シネマで1週間上映して くれたおかげで、映画館でみれました。 連合赤軍についてよく知っているわけではないので、これが実録なのかは わからないです。だけど自分がこの若松監督の表現した当時の環境に ひとりのメンバとして存在していたらおなじこと(同士殺しへの加担)を したのではないか、逃げられなかったのではないかと 納得させられる迫力がありました。 また、この事件の影響の大きさについて改めて考えさせられました。 新左翼運動、学生運動が急激に失速する契機になったといわれる 事件ですが、それにとどまらず今の自分や多くの日本人が 革命を夢見ない あるいは、すでに進行していた経済最優先の日本に 漫然とみんなが従うという状況になるのを、後押ししている事件 なのではないかという気がしました。 私は当時小学生で、おぼろげながらテレビをみた記憶がありますが、 振り返ってみれば同じ月には「札幌オリンピック」がありました。 開会式は、その頃ようやく各クラスに設置されたテレビでみました。 生徒は皆釘付けになっており開会式の途中で担任の女先生が ほかのクラスに「家庭科を教えにいってくるからXX先生が来たら テレビ消すのよ」と言って出て行って、数分して「向うでもテレビ みてたので、帰ってきた」と言われたのを覚えています。そんなのどかな 小学生時代の同じ月にあさま山荘事件は起こりました。こちらも釘付け。 瞬間最高視聴率89%。誰もが話題に。「あの鉄の球でぶち壊せ」 だとか、家に帰ると毎日「どうなった」から会話がはじまりました。 でもその後あきらかになった連合赤軍内でのリンチ(山岳ベース)事件 については、誰とも話した記憶がありません。新聞で死体が置かれた 挿絵を見た覚えがあるのですが、なんだか見てはいけないものを 見てしまったような気がしました。皆も衝撃が強すぎて、あまりにも おぞましくて、話題としてさけたのではなかったろうかと思います。 そして、この映画で一番印象に残ったのは、まさにその 「あさま山荘への道程」のリンチ事件でした。 主演は、坂井真紀。まあ3時間超のなかで主演はころころと変わるので この表現は適当ではないかもしれませんが全体で誰が一番印象深かったか といえば、粛清された遠山美枝子役の坂井真紀。役者としてはアイドル 的なイメージをもっていたし、遠山という人については全く知らなかったので 見るまでは?と思ったのに映画では、追い詰められ壊れてゆく姿をみごとに 演じていました。全体を通してとぎれなかった緊迫感のなかでも特に極限に 近づいていた場面でしょう。あとから知ったことですが、遠山美枝子は 若松監督の『赤軍-PFLP世界戦争宣言』(1971年)の上映運動を 手伝っていたとのこと。監督の特別な思い入れがうかがえます。 もうひとり監督の特別な思い入れがあるのではと感じたのは、前述の映画に 現地協力した重信房子。冒頭のほとんど記録映像のなかで実写で登場。 『学費値上げ阻止!』などの立看がならぶ大学のキャンパス。 アジっているのを立ち聞きしている、ちょっと時代を飛びぬけたような容姿の 女性。(演じるのは、『約三十の嘘』伴杏里。モデル出身)そこに、はじめて きましたという感じでやってくる遠山が横に立ち二人は視線を一瞬合わせる。 歴史的の瞬間!?_その後二人が腕を組んでデモするなどいろいろあって、 夜の街で二人がわかれるシーンがまた印象的。「フー」「ミエコ」と呼び あう二人だが、もう生きて会うことはないとお互いが思っているのが伝わって くる。<字幕 赤軍派国際委員 重信房子 レバノンへ脱出> もっとも私は、ここで遠山が日本に残ったということは、山で殺される側に なるんだろうなあと予想し、重信は今も生きてるわけだから、海外に出た方 が生き延びるんだと思ったのだが、実際当時の感情は逆。 以下は文藝別冊から引用したブログの引用 「『フーの方が、先に死ぬんだねえ』/ミエコはいった。/わたしは、 何も答えなかった。/ミエコの目に、みるみる涙が浮かんできた。 わたしに『死ぬ』という言葉を言ったのはミエコがはじめてだった。」 引用終わり 考えてみれば当然で、まさか日本でそれも同志で殺しあうなんて 誰も思っていなかったことでしょう。レバノンに行ったほうが、 死ぬ確率は高かったはず。運命だなあ。 書き出すと、あのシーン、この役者さんと、いろいろ語りたくなる 映画ですが、もう朝です。でも、もうひとつだけ、ネタバレ気味ですが ラストのところ。一番若いメンバが叫ぶところ。 このシーンは、映画の冒頭で『この作品に描かれた事件や出来事は すべて事実だが一部フィクションもふくまれる』とあったフィクションの 部分だろうけど、実録とはいえただ事実を描いて観客に判断を委ねる のではないところがよかったと思いました。監督の生の声というか、 若い人への思い入れを感じました。 また機会があればつづき書きたいです。ではまた。
Date: Sat, 2 Aug 2008 18:59:25 +0900 (JST) From: 風曜日 To: eigakandemiyou@freeml.com もっきぃさん MLのみなさん こんばんわ ハナコです。 ほんとうにお久しぶりです。 「実録 連合赤軍」に関する若いみなさんの興味と関心の大きさにちょっと驚 かされました。 松田さんの言われるように、同時代に青春を送った私としては、まことに複雑な おもいを抱かざるをえません。 私はリーダーのもりつねおや、ながたひろこと同じ年齢です。学園闘争にほん のちょっと関わったこともあります。 だからこそ、「れんせき」問題は人ごとではなく、かつ彼らとは全く違う道を 歩んできた私には 「う-ん」と絶句するしかない時代が30数年続きました。今回若松監督の 「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」には、見たいような、また見るのが 怖いような複雑な感情を持たざるをえませんでした。 なぜ、彼らがあのような道を選び、私は選ばなかったのかという直截な問いと 、彼らをあのような悲惨な道に追いつめていったのはなんだったのかというふ たつの問いが突きつけられていると思うからです。 だから、映画は見ていません。見るのがいやだったということもあります。 でもDVDが出たら、借りることになりそうです。 もっきぃさん 解説の続きを期待しています。 それでは。
ハナコです。 tokoさんに同行してもらって「蟻の兵隊」をみてきました。以下は感想です。 蟻の兵隊--61 年前の真実を 追究する奥村和一さんの「老いの一徹」が美しい ドキュメンタリーを見る楽しみの一つに主人公のキャラクターということが ある。「「ゆきゆきて 神軍」の奥崎謙三、「A2」の荒木オウム広報部長、 「もっこす元気な愛」くらたてつやくん、私は単純な人間だからこうしたユニークな ひとの頑張る姿に感動してしまう。 今回の「蟻の兵隊」の82歳の奥村さんに、「老いの一徹」の凄さをみた。プ ログラムの表紙を飾るのは、奥村和一さんの横顔である。奥村和一さんの横顔 に今では見ることが難しくなった美しい日本人の姿をみた。 日中戦争が日本の敗北で終わった1945年8月に 中国の山西省にいた5万9000人の日本軍部隊は、この 地方にいた中国国民党軍に降伏した。軍閥的な存在で あった国民党軍の閻錫山(エン シャク サン)は、 共産党軍との戦いに日本軍を必要とし、降伏してきた 日本軍の司令官と交渉して日本兵約2,600人を残留させた。 以後数年間、彼ら日本兵たちは共産党軍と死闘を繰り返した。 映画「蟻の兵隊」について 佐藤忠男 プログラム 生き残って日本に帰ってきた数少ない兵士達は、日本軍人としての年金や補償 を求めて裁判を始めるが、政府は彼らが自らの意志によって残留したのだ といって認めない。 映画は奥村和一さんが、日本軍の命令によって強制的に中国にのこったのだと いうことを証明する資料をもとめて中国山西省に旅立つところから始まる。 しかし、中国で彼が検証したのは残留命令だけではなく、自らも加害者となっ た日本軍の残虐さだった。16歳のとき日本軍兵士に輪姦されたという女性の 話を聞く奥村和一さんの態度は検挙だ。彼女も奥村和一さんに「奥さんに中国 でなにをしたか、話してみなさい」と進める。 21歳で徴用され、軍の命令で中国に残留し戦後数年間中国共産党軍と戦わな ければならなかったという「被害者」の面と、その結果として中国のひとびと を殺し、傷つけた「加害者」の面とふたつをもつ奥村和一さんは複雑だ。 しかし、「加害者」の面もひるまずに見届けようとする彼は美しいと私は思った。 私がこの映画を見に行ったのは週日の午後。上映館の渋谷のイメージフォーラ ムは行列ができるほど、盛況だった。映画を見にきているひとは年配のかたが 多い。若いひとにもこの映画をみてもらいたい。 tokoさんに中国語の部分は耳元で読んでもらったので、私にもあらかたのこと は理解できた。視覚障害者は字幕を読んでくれるひとと同行することを進めます。 それでは
入院記録 メディカル・ミステリー・ツァー ーー視覚障害者が入院したらーーーー 1.緊急入院 発 作 日曜の午後、夫と丘の上のユニクロにいま評判のカシミヤセーターを買いに出 かけた。その帰り道、動悸が激しくなり、息切れが始まった。気分が悪くなり 一刻も早く家に帰りたい、帰り道は結構長く途中で何度も立ち止まら なければならなかった。 帰宅して休んだが、動悸は夜まで収まらない。これでは明日病院に行くしかないなと覚悟を決めた。 翌朝あまり眠れなくてぼんやりした状態で、今年1月心臓で入院した友人に 電話をかけ、アドバイスをしてもらった。友人は東京女子大のような大学病院 に行くより、専門病院の方がいいのではと、わざわざインターネットで板橋の 心臓専門医を調べてくれた。 夫は自分が4年前、入院して手術をした日赤医療センターがいいという。な んとなく入院する予感が働いたのか、私は近くの専門医より自宅から一時間半 もかかる日赤を選んだ。というよりそのときは判断力を失っていてもう一国も 早く、動悸を静める治療を受けたくなっていたのである。 視覚障害のある私はひとりで病院にいくことは難しい。緊急にガイドヘルパ ーを依頼しても間に合いそうもない。夫が同行してくれるなら遠い日赤でも良 かったのだ。4年前の夫の入院・手術の経験から日赤が信頼できる病院であることはわかっていた。 支度に手間取って家を出たのが、10時半過ぎ、病院に着いたのは11時半を過ぎ、午前中の診療は終わっていた。午後は循環器内科の専門医はいないといわれたが、とにかく診察、投薬を受けたかったので受付をした。 そのまま消化器内科に行き、午後の診察を待った。 問診のあと、血液検査、レントゲン、心電図をとり消化器内科に帰ったのが午 後3時を過ぎていたと思う。昼食は食べていなかったが食欲はなく、夫が買っ てきてくれたお茶だけを飲んでいた。 消化器内科の医師は「循環器内科にいってもらいます」といって、また長い廊下 をぐるぐると回り、循環器内科を訪れた。そのころはもう待合室の長いすに座っ ているより、横になりたくなっていた。 循環器内科の最初の医師は私の顔を見ると、「いすに座っているのがつらくな いですか?」と聞いたが虚勢を張って「いえ、大丈夫です」と答えた。この先 生は私のレントゲン写真をみて「肺にかげがありますが、結核をやったことが ありますか?」という。心臓がばくばくしているのに、何でこんなことを聞か れなければならないのかわからなかったが、「小学生のころ結核になりました 」と答えておいた。 また、待合室に戻って呼ばれるのを待った。このころにはかなり待っているの もつらくなっていた。次の診察室に入ったとき、「ああ、この先生は循環器の医師だ」とすぐにわかった。心電図をみて、簡単な問診を終えて「シンエコをしましょう」という 。はてシンエコとは? よくわからないという私の顔をみて「心臓のエコー検査です。その結果で今日は入院ということになります」。私は不思議なことに納得してしまった。この医師がそういうのなら入院したほうがいいのだろうと。 すぐに車椅子に乗って検査室へ向かう。車椅子のうしろで夫と医師が何か話 し合っていたが私自身は自分のこととしてのどこか実感が乏しく、「まるでド ラマのERみたい」と驚いていた。 検査室では筋骨たくましい検査技師がいて(以後この人のことを筋骨先生と呼ぶ) 車椅子から私を検査台に移すために、「私の首につかまってください」という。 若い(多分)男の首に腕をかけるなんて、何十年ぶりで少し照れながら筋骨先生の首に つかまった。 すっと検査台に体が移り、ゆっくりと横になる。 胸をあけて暖かいゼリーを塗り、センサーを心臓に押し当ててエコー検査が始 まった。筋骨先生と循環内科のK医師がモニターを見ながら話している。聞き耳を立て るが専門用語の山でさっぱりわからない。筋骨先生は熱心にモニターをみつめ ながらセンサーをぐいぐいと私の胸に押し付ける。べつに痛くはないが彼の体 も私に密着しているので、少しこそばゆい。暗い検査室でベッドに横たわり胸 を開けて……なんてと「××の診察室」とかいう三流AVみたいねと笑っ てしまう自分のゆとり(??)がなんだかうれしかった。 長く感じられたエコーが終わり、また筋骨先生の首に腕をまわして車椅子にのりかえ、長い廊下を移動して割と大きな部屋に入った。部屋の中央に高い手術台のようなものがすえられ、私はぎょっとした。「まさか、緊急手術なんて??」 これは完全にERの見すぎで、実際は壁際にあるベッドに横たわりすぐに点滴 が始まった。「脈拍を落とす点滴です」と説明があったがそのころは頭 もぼおっとして理解ができない。あとで聞くと私の脈拍は150を超えていた これは100メートルを全力疾走をした後の脈拍である。 心電図のモニターを見ながらK医師とほかの医師が「落ちませんね」としきり にいっている。脈拍が落ちないという意味だとあとでわかった。 点滴の薬を変えて、少し脈拍が落ち始めたころK医師がPHSで何か連絡をし ている。「CCUは6時過ぎ」「酸素吸入は必要ない」とか私の入院の打ち合 わせをしているらしい。あとで夫に聞いたらその前に主治医となるY医師と入 院の手続きをしていたのだ。 2.CCU(CORONARY CARE UNIT) 病 名 車椅子で6階病棟にあがる。車椅子を押してくれる緊急外来の看護師Oさんは、 4年前の夫の入院時に担当だった人なので心強い。CCUは手術直後に入るICUほど緊急性はないが、24時間モニター管理の病室である。 oさんに病名を聞いた。「発作性心房頻拍」という病名で心室とちがって、狭心症や心筋梗塞など命にかかわるものではないが、一分間150などという不整脈を放置すれば、心不全ということもある。私の場合はほぼ一昼夜発作性心房頻拍が続いたわけだから、きついわけだ。 脈拍が百以下におちると、やはり体がらくになってきて、自分の病名もわかり、余裕ができた。ただ、入院というのは十年前に白内障の手術以来なので、不安が募った。 私の視覚障害は一級、全盲ではないが日常生活にかなり支障がる。 CCUのベッドに落ち着くと、急に体もこころもラクになり、余裕ができた。脈拍も一分間100をきった。CCUの担当看護師も小柄でしっかりした感じのひとで信頼できそうなひとだ。。 午後六時をまわっていたので夕食は冷えていたが食べることができた。主治医となるy医師とインターンのD先生ーーこのひとはドラマ「er」のカーター君みたいなので以後カーター君とよぶことにするーーがきて、私の症状と治療の方針を説明してくれた。 4年前の夫のガンのとき、実感したのだが、日赤はインフォームドコンセントが徹底していて患者本人や家族に納得がいくまで病気や治療について話してくれるし、質問に答えてくれる。今回は私自身心臓疾患があると思っていなかったので、何の予備知識もなくy医師やカーター君の話を呆然として聞いていた。 だから当時完全に理解できたとは思えないのだが、 ①この発作は心室ではなく心房性であり、狭心症や心筋梗塞のような命に関わる発作ではない ②頻泊は不整脈の一種だが、今回は自己回復できなかった。心臓の動きは簡単にいうと電気パルスのようなものであり、私の場合普通のひとが1回うつところを3回うってしまうという頻泊発作だ。 ③原因はカテーテル検査をしなければわからないが、カテーテル検査はそれなりの苦痛と危険を伴う検査であり、私の場合はそこまでやる必要はない というようなことを、素人にも分かるように丁寧に説明してくれた。 大部屋への移動を巡る婦長との戦い CCU第一夜はこれまで睡眠不足が続いていたこともあり、ぐっすり眠れた。朝起きると婦長がやってきた。ものやわらかな口調だが、私の病状は命にかかわるものではないし大部屋へ移ってほしいという。 私は「自分は視覚障害者であり、大部屋ではほかのひとに迷惑をかけるから、CCUにおいてほしい」と断った。事実日常生活にかなり不自由な思いをしている私が大部屋でうまくやっていけるとは思えなかった。杖をもって狭い大部屋のスペースで動き回るのはやっかいそうだ。婦長は「杖なんかここではみんな持っていますよ」と反論してきた。 要するに病院では重篤な患者が優先されるということで、視覚障害者だから特別扱いということはなさそうだ。いつも障害者ということで特別扱いをされることに慣れていた私にはそれは新鮮な驚きだった。 医師も看護師さんもやさしいし、質問にも丁寧に答えてくれるけれどそれは私が患者だからであって、視覚障害者だからではない。私を視覚障害者として扱ってくれたのはy医師だった。 私が婦長に大部屋に移れといわれたが大部屋にはいきたくないというと、「そのように配慮します」といってくれた。しかし夫の入院のときも感じたのだが、病棟では医師より婦長の方が「権力」を持っている。 二日目の朝になると、また婦長がやってきて大部屋への移動を促した。私もいろいろと都合を言い立てて、抵抗を試みた。婦長はあと一日だけですよと言い置いて去った。 三日目になると、婦長がきて「重篤な患者がでましたのですぐに移って下さい」。問答無用で荷物を看護士さんがまとめ始めた。私も今度は覚悟を決めておとなしく引っ越しをした。 3.大部屋へ 老女部屋?? 入院2日目には金曜日に退院ということが決められていたので、短期滞在になることは分かっていた。だから大部屋といっても二泊三日しか居ないわけだから、多少の不便、不自由は我慢しなければと覚悟を決めた。 ベッドは6台。私のベッドは入り口のそばだった。これならトイレや部屋の出入りに便利だ。しかしCCUは15畳くらいの空間をひとりで使っていたし快適だった。大部屋はベット一台と枕頭台しかおけない狭い空間である。しきりはカーテン一枚。粋がつまるほどの空間だ。 同室の患者さんは私をいれて6名。一応挨拶をしておかなければと、名前と病名をなのってみた。みなさんも簡単な自己紹介をしてくれた。 入院生活というのは、三度の食事、検温、各種の検査などあり、そう日まではないが、あいまあいまは本が読めない私にはすることがない。 そのあいまの時間は同室の患者さんと話すことになる。私は入って右側のドア側のベッド、となりの方は病室でいちばん年上のようだった。70際をこえていたようである。いわゆる山の手の奥様風の話しかただ。この方がなんの病気で入院しているかは最後まで分からなかった。 窓際のかたは病名ははっきりといわなかったが循環器内科ではなかった。 70台はこえていたようだ。 入って左側の窓際の方はおそらく70台で、循環器内科で入院していて、カテーテルをいれて治療することになっていた。 まんなかのベッドのかたもおそらく70台で循環器。私の向かいのドア側のひとは私より2歳年上の60台で循環器内科で入院していた。 つまりこの病室では60歳をまじかに控えた私がいちばん若くて症状もいちばん軽いということになる。「なんだい、この病室は老女部屋じゃないか」と内心思った。「これじゃ視覚障害者だからといって面倒みてもらうわけにはいかない」と覚悟した。 入院三日めになると私もだんだんと病院に慣れて日常生活でそう困るということはなくなっていた。大部屋はトイレのすぐ前だし、検査にいくときは、看護師さんが同行してくれる。食事も慣れてきてほとんど介助無しに食べられるようになっていた。 身辺自立ということは、ます、食事、排泄、衣類の着脱が一人でできることである。私はなんとか入院生活でこの三つをクリアした。食事はひとりで配膳車にとりに行くのが難しい。これは入院二日目の午後までは点滴を受けていたせいもあり、食事担当の職員がベッドまでもってきてくれた。点滴がはずれてからも、配膳車にいって、自分の名札をつけたトレイを見つけるのができないので、職員がベッドまでもってきてくれた。返しにいくのも最初はできなかったが、四日目、五日目になるとなんとかできるようになった。 食事でいちばん情けないのは、自分が何をたべているのかよくわからないということだ。 この煮魚はたぶんかれいだろうなと…。配膳担当のひとにメニューを聞くことにしたが、彼女たちも食事時は一刻を争うほど多忙なのだ。 入院生活でいちばん困ったのは、じつは電話である。携帯電話というのは私達視覚障害者にとってはとてもありがたいものだ。アドレス帳に登録しておけば電話番号を打たずに電話をかけられる。ドコモのらくらくホンという携帯は音声読み上げ機能があり、視覚障害私の周囲の9割程度がこれを使用している。 緊急入院と言うことで、数人の友人や知人に連絡しなければならないが、病室ではもちろん携帯電話は御法度である。夫に頼んで連絡してもらったが、自分で直接電話しなければならない用件もある。 二日目の朝、検査に行く前にトイレに行くことにして、そこでこっそり携帯を使おうとした。やはり悪事はできないもので手がすべって携帯を便器のなかにおっことしてしまった。トイレのそとで待機していた看護師さんも携帯を乾かしてくれたりしたが一度水をくぐったものは使い物にならない。 公衆電話を使うしかないのだが、電話の前はいつも行列ができていて、かなり待たされることになる。病院の外にでればいいのだが、点滴台をひきずっている身としてはやっかいだ。これほど携帯が普及しているのだから病院の一角に「ケイタイ使用可」コーナーを設けてくれると助かるなと痛感した。 日赤は一階に「喫煙コーナー」を設けているのだから「ケイタイ使用コーナー」をつくってくれてもいいのじゃないだろうか。
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